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2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。
私は、担任していた2年生の子どもたちと
今まさに帰りの挨拶をしようとしていたところでした。

すぐに机の下にもぐった子どもたち。
女の子が「おかあさ~ん、こわいよ~・・・おかあさ~ん・・・」と
ふるえて泣いていた声が今でも耳に残っています。

それもそのはず、私のいた学校はなんと半壊状態。
廊下は途中から50cmほど下に落ち、
校舎の半分がガタッと傾き、校庭は地割れがひどかったのです。

私の教室は被害が少なかったのですが、
反対側の教室は窓ガラスが全部割れて廊下に落ちていました。
子どもたちは教室にいたので
誰ひとりけがをしなかったのが奇跡的なくらいでした。

校庭にみんなで集まったとき
高学年の女の子も泣いている子がいました。

・・・みんな本当に怖い思いをしました。


この地震で私自身もかなり揺さぶられたようです。
学校再建のために力を尽くしたいと思いながらも、
放射能が死ぬほど怖くて怖くて夜も眠れないほどでした。

以前読んだ本に、浜岡原発が放射能漏れしたら、
その放射能は関東までやってくると書いてありました。
だから、福島の放射能も埼玉に来るのは当然と思ったのです。

しかも、爆発までして・・・
とても生きた心地がしませんでした。

怖いから逃げたいと強く思いながらも、
でも仕事があるから無理・・・と思っていました。

しかし、3月16日の早朝、
「逃げよう」という心の声が聞こえたのです。
その声は小さかったけれど
確かにはっきりと聞こえました。
そうだ、逃げよう。

夫に話したら、「確かに危ないようだ。よし、逃げよう。」との返事。
ここで運命が決まりました。

我が子を起こし、弁当を作り、
避難のための準備をしながら、学校に電話をかけました。
あいにく留守電でしたのでメッセージを吹き込んだのですが、
私が言った言葉は
「申し訳ありませんが、家族で避難します。学校は辞める覚悟です。」
という言葉でした。

実はそのときまで仕事を辞めることなど全く考えていませんでした。
自分で自分の言葉にびっくりしたのです。

そうして3月16日の朝早くに家族で家を出ました。
このときはまた家に帰れるかどうかも分からないと思っていました。
他の人たちも次々に避難して、日本中が大混乱になるだろうと思っていました。
実際、車に積んだ荷物の中にはシュラフやカセットコンロなどがあり、
野宿さえ厭わない覚悟でした。

目指したのはまず大阪です。
大阪に着いてからその日の宿を探し、
スマホも携帯も持たない私たちはノートパソコンを買いました。
ノートパソコンでネットから情報をし入れ、
さらに西に逃げようと思っていたのです。
実際、翌日以降の宿はネットで予約を入れました。
西日本に頼れる親戚や知り合いは皆無でした。
また原発の情報はテレビに真実はないと思っていたので、
ネットが欠かせませんでした。

実際、ホテルで見たテレビのニュースでは
「直ちに健康に被害はない」の一点張りで安全を謳っている一方で、
被災地福島へボランティアに行くことを勧める内容ばかりで唖然としました。

ただ地震だけなら助けに行くことも必要でしょうが、
濃い放射能が立ち込めるところへ
若い人を行かせるようとする報道に腹が立ちました。
この時、本当に国もマスコミも信用できないことを痛感しました。

当初、原発事故は早くに収束されるか、
あるいは爆発して関東まで立ち入り禁止区域になるか、
どちらかかと思っていました。

ところが、ダラダラと放射能がもれ続けている状態で
どうにもならないことが分かったので、
1週間で避難は切り上げて埼玉の家に帰ることにしました。

実は、担任していた子どもたちの通知票を持って出ていたので
それを渡すために何としても終業式前には帰らなければならなかったのです。
当時、郵便も宅配便もどれくらいかかるか当てにはできない状況でした。

それともう1つ、
外食続きでもういい加減、体が悲鳴をあげていたのです。
放射能から逃れても
添加物入り、農薬入りの外食で体を壊すわけにいかない、
排毒作用のある雑穀や野菜、調味料をしっかりとって、
体の中から毒出しをしよう。
放射能が例え体に入ってもしっかり出せる体つくりをしようと誓いました。
そして、3月23日には埼玉に戻ったのです。

この避難旅行のあいだに、
この先どうやって生きていくか、私自身の腹を決め、
家族にもきちんと伝えました。

前々から教員を辞めたいと願っていた私にとって、
実はこれは最大のチャンスでした。

時は3月。ちょうど学年が変わる時期です。
急だったのでかなり迷惑をかけましたし、
学校側は何度も引き留めてくれましたが、
私の決意は変わらず、3月末で辞めることにしました。

21年間勤めた仕事です。
でも全く惜しくありませんでした。

当時、すでにテレビはありませんでしたが、
ネットで何度も津波の映像を見ていました。

あの津波で命を落とした人がたくさんいる。
家族を亡くした人もたくさんいる。

私には自分の命も家族もある。
仕事がなくなることくらいは何でもない。
今こそ本当にやりたいことをやろうと熱い思いが込み上げてきていました。

生きていく上で本当に大事なものは何か、
そのことを真剣に考え、
自分に嘘偽りなく生き、
誰かの役に立ちたい。
そう思ったのです。

この原発事故で日本は放射能まみれになる。
こういうなかで生きていくためには
食を正し、排出力の高いからだをつくるしかありません。

今こそ日本中の人に正しい食を伝えたいと強く思いました。
これは今でも同じように思っていることです。

今もまだ原発の放射性物質は出続けています。
日本だけでなく世界中が汚染されています。
逃げるところはないのです。

何しろご自分のことだけですまないのです。
自分の子ども、その子ども、そのさらに子ども・・・と、
人類の未来を考えるならばのんびりしていられないと思います。


あれから4年の月日が流れました。

4年で何が変わりましたか?

うちにいらした方たちの
食と生き方が変わるお手伝いができたのかどうか
自問自答しています。

これまで生きてきた洗脳を解くというのは
一筋縄ではいかないことも多いです。

でも、私はこれからもちえ~るクッキングで
本当の食と生き方をお伝えしていきたいと思っています。

私の熱い思いの出発点は
この日なのです。



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